【社会】「読んでると恥ずかしくなる」朝日新聞は若者に説教するとき、なぜ尾崎豊に頼るのか「私たちの手には『盗んだバイク』ではなく…」
【社会】「読んでると恥ずかしくなる」朝日新聞は若者に説教するとき、なぜ尾崎豊に頼るのか「私たちの手には『盗んだバイク』ではなく…」
朝日新聞がまたやらかした! あれほど注意しておいたのに。今回私が驚いたのは夕刊コラム「素粒子」だ。一面の日付のほぼ下にあり、政治や社会への皮肉や風刺などが数行で書かれている。
そのコラムは10月15日の火曜日。衆院選が公示されて選挙戦がスタートした日だった。一面見出しは『衆院選公示 政治改革問う 27日投開票 経済対策など論戦へ』。その横に「素粒子」があった。最初の一節を紹介しよう。
読んでいると恥ずかしくなってくる朝日新聞のコラム
「〽僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない 尾崎豊の歌声は石破首相の胸中にこだましているか。『汚れた大人社会』への反抗の真贋(しんがん)問われる67歳」
シンガーソングライター・尾崎豊の『僕が僕であるために』(作詞・作曲:尾崎豊)からの引用である。この曲はアルバム 「十七歳の地図」(1983年)に収録されていた。石破首相を「問われる67歳」と書いてるのは十七歳と67歳をかけているのが明白だ。
次の行にいこう。
「『政権交代こそ、最大の政治改革。』と言うのに、野党は乱立のままか。僕が僕であるために、負け続けては意味はなし」
文面からあふれる、うまいこといってやった感
だんだん恥ずかしくなってきた。ここでもまだ「僕が僕であるために」を引っ張っている。では最後の一節を見てみよう。
「私たちの手には『盗んだバイク』ではなく、自分の一票がある。投票日に向けて走り出す」
もういけない、いきなり走り出した。「盗んだバイク」というのは尾崎豊『15の夜』(作詞・作曲:尾崎豊)の歌詞「盗んだバイクで走り出す」からの引用である。この曲も「十七歳の地図」に収録されていた。つまり「素粒子」の筆者はよほど興奮したのだろう。
思い悩むように見える石破首相67歳に対して尾崎の曲はピッタリという着眼点に。そして筆が走り出す。
もともと私は学生時代から「素粒子」が苦手だった。それこそ朝日新聞を読みだしたのは尾崎豊が26歳で早逝した1992年頃なのだが、「素粒子」の文面からあふれる、うまいこといってやった感が苦痛だった。別にうまくないからだ。
さらに言えば庶民側の視点で書いているつもりらしいがそれがうまくいかず、ただただエラそうに自己満足の屁をこいているのが恥ずかしかった。新聞の一面コラムでスベっているのを見るのはきつかった。冗談抜きでそれが原因で他紙に購読変更したこともあったくらいだ。
だが今回私が驚いたのは「素粒子」問題だけではない。朝日新聞による尾崎豊問題がまた勃発したからである。というのも今や伝説となっている社説があるからだ。今から12年前、2012年の成人の日の社説だ。
タイトルは「尾崎豊を知っているか」。
ほら、嫌な予感しかしないでしょう。その予感は的中し、冒頭から走り出していた。
「ああ、またオヤジの『居酒屋若者論』か、などと言わずに、聞いてほしい。キミが生まれた20年前、ロック歌手・尾崎豊が死んだ」
なんだこれは。成人の日だから若者に語りかけているのは間違いない。しかし居酒屋でいきなり絡みだすおじさんのようだ。
朝日の社説は尾崎豊が「大人や社会への反発、不信、抵抗」を歌い、『ここではない、どこかを探し、ぶつかり、傷つく』ことで当時の若者の共感を呼んだと語り始める。
そして「尾崎豊はどこへ行ったのか」と一方的に問いかけるのだ。そして……
「いくら『若者よもっと怒れ』と言っても、こんな社会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、なあ……」
さらに一方的な地獄の説教は続く
壮大なるひとりごとである。完全に酔っぱらっている。さらに一方的な地獄の説教は続く。「でも、言わせてもらう」と書いたあと、
「私たちは最近の社説でも、世界の政治は若者が動かし始めたと説き、若者よ当事者意識を持てと促した。それだけ社会が危うくなっていると思うからだ。 だから、くどいけれど、きょうも言う。成人の日ってのは、そんなもんだ。 ともあれ、おめでとう」
何を言っているのか。さんざん若者に絡んだあとに「ともあれ、おめでとう」って。どこまでエラそうなんだお前は。そういうとこだぞ朝日は。
こんな大人にはなりたくないという読後感だったが、社会に出たらいきなりマウントされた若者の悲劇にも思えた。
なぜこんな悲劇が起きたのか?
尾崎豊のイメージを安く利用しているだけのように見える
普段からただでさえ説教臭い社説が「我々はすでに成人している先輩である」という謎の優位性を爆発させるのが「成人の日」の社説だからだ。少し前までは本当にこの手の社説が多かった。
私のほかにも多くの人が、注意のために世の中にこうして問うてきたことで少しは気づいたのか、最近は成人マウント社説は少なくなってきた。しかし今回また尾崎豊である。冒頭で「朝日新聞がまたやらかした! あれほど注意しておいたのに」と書いたのはそういう歴史があったからだ。
私がもう一つ気になるのは朝日新聞による尾崎豊の安直な使い方である。
こうした社説やコラムを書けるのはベテランだろう。尾崎豊が活動していたころに青春時代を過ごした人たちなのかもしれない。
しかし文面から感じるのは尾崎が好きというより尾崎的な「大人や社会への反発、不信、抵抗」というイメージを安く利用しているだけのように見える。こんなにスベった使い方をちょいちょいされて本当の尾崎ファンはどう思うのだろう。
だから、くどいけれど、きょうも言う。朝日新聞ってのは、そんなもんだ。 ともあれ、おめでたい。
(プチ鹿島)